義経壇ノ浦以後・・神に殺される過程に入ったらどうにもならない

  平家を滅ぼすまでは、だいたい何もかも、義経にとって、よい方に作用したものが、
 壇ノ浦で平家を滅ぼすや、急に何もかもうまくいかなくなった。

 神の力が、その双方に、強力に作用しているのを感じる。

 「人はそれぞれ、ある特定の役割を与えられて、この世に創られる。」

 義経には、格別そのことを感じますね。平家を倒す役割。
 子供の頃、山の中のお寺に預けられて、山中を飛び跳ねて、強靭な足腰と動物的機敏さを身につけ、16歳にまで成長したところで、不思議な機縁あって、奥州の武将のもとで、馬、弓矢の武術を習うことになった。
 
 「神は人を育てる」

 神が、義経を、平家を倒せるにたる武将に育てあげた。何もかもが、その方向に足並みを揃えている。正門坊や吉次との不思議な出会い、

 また、平家の支配の及ばぬ奥州の地に藤原氏というのが、配置されていたということ自体が不思議なもので、

 「この世の配置関係は、全て神が支配している。」

 もしも、藤原氏というのが存在しなくて、全国を平家が完全に支配していたら、義経はあのような武将になる道がなかったでしょう。
 奥州に藤原秀衡がいたということ自体が、神による配置だし、吉次との不思議な出会い、導きがあって、義経は秀衡と出合った。

 さらに、いくさが始まってからも、一般の人の考えのように、義経が優れていたから(それだけで)、あのように次々と勝利していったと考えるのは正しくない。

 確かに義経は、優れた武将だっただろうが、それプラス、
 個々の戦いで、
 義経軍が勝てるように、神が仕組んだ、
 ということが大きいのです。
 何もかもが、義経の思惑通りにいくように、神が仕組んだ。個々のいくさの諸条件が、ちょうど義経がこれまでに培った能力で、うまくいくように、神がちゃんと、しつらえてあったのです。
 ひよどり越えを下る作戦なんかも、ちょうど義経がうまくやれるように、神が仕組んだもの。
 壇ノ浦でも、禁じ手とされていた、船頭を弓矢で射る方法を、義経が思いついて勝利できたということも、神の創作。これが、もしも、何か事情が違っていたとしたら、義経もうまくいかなかったでしょう。
 
 このように、平家を倒させる所までは、神は、義経を育て、戦いに勝たせ、大いなる勝利の感激を与えてやるのですが、

 神は、そう義経ばっかりに、いい思いをさせるわけにはいかない。みんなを公平に扱わなければならない。

 神は義経に平家打倒の目的を果たさせるや、今度は、義経に苦痛を与えて、他の者との公平をはかる過程に入った。相次ぐ勝利の、大いなる感動や、その後の、都の人たちにモテモテの喜び、静御前を抱く快感などを、全部打ち消すにたる苦痛を与えないと、この世の全ての人(動物の含めて)の間に公平を図れませんから、
 それはそれはもう、義経の苦しみは大変大きなもの、長期にわたるものにならざるを得ません。

 いくさの最中に、義経梶原景時らに示した傲慢な態度、勝利に次ぐ勝利で、義経は傲慢になっていたのでしょう、頼朝を無視して、朝廷から高い位をもらったりした。また、頼朝の地位自体が、関東の豪族の支持の上に成り立っていて、
 あの例の、壇の浦のあと、義経江ノ島のそばの腰越まできて、頼朝に会ってもらえず、書いた手紙、「兄に対して、二心を抱いていない・・・」についても、本来、兄弟関係だけのことだったら、頼朝は、義経に会ったんじゃないかな。兄弟とはそういうものでしょう。景時などの他の豪族と詮議して決めなければならなかったから、会わない、となったのではないですか。

 仕方なく、京に戻ってからも、そういうことなら、戦おうとしたのですが、兵が集まらず、船で、あれ四国へ逃れようとしたの?何という不運、風で船が摂津へ押し戻されてしまった。

 奥州まで、どうにか逃れられたものの、これまた何という不運、頼りにしていた秀衡が死んでしまった。頼朝のいうことをきいた泰衡に攻められて、自刃。

 このように、これまで神にもらった快楽を苦で償って死んでいく過程に入ると、もう人間の力では、どうにもならない。

 短く駆け抜けた一生でしたね。
 16歳の時に奥州へ向かい、21歳で頼朝のもとへ、その後4~5年は、勝利が相次ぐ、いい時代だったのですが、そのあとの4年間が崩壊過程。崩壊過程といっても、その間に、気持ちの安らぐ時もあってのことですが、

 30か31歳で死んだ。

 人生は、いい時は短いですね。

 とくに、この義経のように、勝利の大いなる感動をもらう人の人生は、その代償としての苦悩が格別厳しくならざるを得ないようです。

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